Kashi

第 1 章

退職代行という、
末期症状

なぜ、 ひとが辞めるその瞬間まで、 誰も気づけなかったのか。

Kashi 編集部 読了 8 分 2026 春

ある朝、 知らない番号から電話がかかってくる。 「本日付で、 そちらに在籍している山田様の退職手続きを代行いたします。 ご本人は今後、 御社とは一切連絡を取りません」。 受話器を置いたあと、 上司の田中部長は自分のスケジュールを開き直す。 昨日も、 先週も、 先月も、 山田さんと 1on1 をやっていた。 ふつうに笑っていた、 と思う。 思う、 と書いたのは、 もう確かめようがないからだ。

退職代行というサービスが、 ここ数年で 当たり前 になった。 厚生労働省の関連調査では、 20 代社員の離職経験者の 16.6% が退職代行を利用している。 6 人に 1 人だ。 5 年前にはほとんど誰も聞いたことのなかったサービスが、 もはやインフラに近い位置にいる。 これは、 便利な選択肢が一つ増えただけ、 という話なのか。 それとも、 何かがすでに 手遅れ になっている、 ということの兆候なのか。

私たちは、 後者だと考えている。

ひとが組織を去ること自体は、 もちろん新しい問題ではない。 嫌になれば辞める。 合わなければ辞める。 それは健全な労働市場の前提だ。 問題はそこではない。 問題は、 「対話で別れる」 という最低限の手順すら成立しなくなっていること の方にある。 上司に直接 「辞めます」 と言えない。 同僚にも言えない。 第三者に金を払ってでも、 自分の言葉を一切使わずに退場したい。 — それは、 ひとが組織との対話を完全に諦めた瞬間の姿だ。

対話を諦める、 という現象は、 実はもっとずっと早い段階から始まっている。 退職代行が来たその朝は、 結末 であって、 始まり ではない。 始まりは、 もっと地味で、 もっと日常的で、 そして驚くほど見逃しやすい。

illustrative · 退職に至るまでの「対話の濃度」

気づけたはずの時間は、
ずっと長く続いていた

−6ヶ月 −4ヶ月 −2ヶ月 −4週 −1週 電話が、 鳴る 気づけたはずの、 長い時間 もう、 手が届かない 対話の濃度

山田さん (架空) の退職までの 6 ヶ月間を、 1on1 や日々の会話の往復の量で図示した概念図。 数値ではなく、 関係の厚みが時間とともに細っていく様子そのものを描いている。 illustrative — Kashi 試作モデルによる構造可視化のスケッチ

02「兆候」 という言葉が、 すでに間違っているのかもしれない

退職や、 メンタル不調や、 ハラスメント告発の 兆候 を見つけよう、 と多くの組織は言う。 サーベイをやり、 1on1 のテンプレを整え、 エンゲージメントスコアをトラッキングし、 「危険信号」 を見逃さないようにする。 一見、 正しい姿勢に見える。 しかし、 ここには一つ、 見落とされている前提がある。

兆候 という言葉は、 本来そこには起きないはずのものが、 例外的に発生したサイン を指している。 体温が 38 度を超える、 グラフに突然のスパイクが立つ、 そういうイメージ。 けれど、 退職代行が呼ばれるような対話不全は、 そういう形では現れない。 むしろ だ。 何かが 起きなくなっていく。 質問が出なくなる。 笑いが減る。 雑談が消える。 1on1 のあとに 「ありがとうございました」 以外の言葉が無くなる。 つまり、 検知すべきは 異常 ではなく、 静かさの蓄積 の方なのだ。

この種の静かさは、 サーベイの 「総合満足度 4 段階で 3 を 2 にした」 のようなイベントとしては立ち上がってこない。 多くの場合、 当人すら 「私はまだ大丈夫」 と答える。 自覚した時点ですでに退場の意思が固まっているからだ。 そして 1on1 の議事録には 「特に問題なし」 と書かれる。 マネジャーは嘘をついているわけでもサボっているわけでもない。 ただ、 無いこと を観察するための道具を、 誰も持っていないだけだ。

問題は、 サインが弱いことではない。 サインを 「サイン」 と認めない、 その文法の方にある。

03退職代行は、 「個人の選択」 ではなく「組織の症状」 である

退職代行を頼んだ本人を責めることに、 意味はない。 もう辞めると決めた人にとって、 そのサービスは合理的で、 安全で、 おそらく必要だ。 ここで問われるべきは、 「対話の余白がなくなるまで、 組織側は何を見ていたのか」 の方だ。

多くの企業で、 退職代行の電話は人事部に直接かかってくる。 その瞬間、 マネジャーは事後通知される。 マネジャーは混乱し、 自分の失敗だと感じ、 同時に 「何を間違えたのか分からない」 と途方に暮れる。 そして上層部は再発防止策として 「1on1 の頻度を増やす」 「サーベイをもう一周回す」 と決める。 — けれど、 増やされた 1on1 と新しいサーベイは、 たいてい、 次の退職代行を防げない。 道具が同じだからだ。 静かさ を見るための道具ではないからだ。

もう一段踏み込むと、 退職代行の利用率は 業界や組織規模よりも、 マネジメント文化との相関の方が強い という肌感がある (定量化はまだ難しいが、 私たちが見聞きしている範囲ではかなり明瞭だ)。 つまり、 退職代行を呼ばれる組織と、 呼ばれない組織がある。 呼ばれない組織は、 ひとが辞めないわけではない。 辞めるときに 言って 辞めていく。 その差は、 福利厚生でも給与でもなく、 対話が成立する余白がどれだけ残っていたか による。

私たちは、 この 「対話が成立する余白」 を、 もっと早い段階で、 もっと構造的に見えるようにしたい、 と考えている。 退職代行の電話が鳴ったあとではなく、 鳴る 3 ヶ月前に、 6 ヶ月前に。

04「中身」 を読まずに、 「関係の形」 を見る

ここで一つ、 大事な区別をしておきたい。 私たちが見ようとしているのは 会話の中身 ではない。 誰が何を言ったか、 何に不満を持っているか、 そういう情報を抽出するつもりはない。 それは監視であり、 信頼関係を壊す。 私たちが見るのは、 もっと素朴な構造の方 — 誰と誰の間で、 どれぐらいの量と頻度で、 どんな質感の往復が起きているか。 名詞ではなく、 動詞でもなく、 もっと手前にある関係の形そのもの。

たとえば、 田中部長と山田さんの 1on1 が、 半年前は 40 分の往復があったのに、 直近 2 ヶ月は 8 分の独白に変わっている。 そのことは、 中身を聞かなくても観測できる。 山田さんの相槌の長さが平均より 60% 短くなっている。 そのことも、 中身を聞かなくても観測できる。 そういう 形の変化 だけで、 「ここに何かが起きている」 とだけ、 静かに知らせる。 何が起きているかは、 マネジャーと本人が話せばいい。 その対話の余白を、 まだ間に合う段階で残しておく。 それが、 私たちのやろうとしていることだ。

これは予測ではない。 スコアでもない。 危険信号でもない。 ただの、 関係が細っていることに、 関係している当事者たち自身が気づける道具。 もっと言えば、 マネジャーが自分のマネジメントを 自分で見直せる ための鏡。

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退職代行は、 ある時代の象徴として、 もう少し長く語られると思う。 けれど、 私たちはその先の話をしたい。 末期症状を治療する話ではなく、 末期症状に至るずっと前の、 静かな対話の細りに気づける時代の話。

それは技術的にも、 ようやく現実的になってきている — というのが、 次の章の入り口だ。

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いま、 気づける時代がきた。

Kashi · 対話を、 続けるために。 序章へ戻る 目次